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「モー娘。のデビュー曲をいじっていいのか迷いました」北野篤×つんく♂対談

noteマガジン「つんく♂の超プロデューサー視点!」、今回の対談ゲストは広告のプラナーの北野篤さんです。ハロプロ作品のMVをはじめ、TVドラマ『真夜中にハロー!』の企画・プロデュースもつとめる北野さんは、ビートたけしさんの長男でもあります。

子どもの頃から北野さんは「芸能界には絶対に近付かないようにしようと思っていた」んだとか。そんな北野さんは、どのようにエンタメの世界に足を踏み入れ、ハロプロと関わりを持つようになったのでしょうか。子を持つ親としての、つんく♂の視点にも注目です。
<構成 山田宗太朗 / 編集 小沢あや(ピース株式会社)

親? 芸能人? 父との接し方がわからなかった少年時代

つんく♂:いきなりですが、聞きたいのはお父さんの話です。お父さんがあのビートたけしさんってことで、間違いないですよね?

北野:いきなりですね(笑)。

つんく♂:僕も子をもつ親として聞きたいことがあるんですが、「超」のつく有名人を親に持つって、どうでしたか?

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北野:僕の場合は一緒に住んでいた期間がほぼないことが大きい気がしていて。つんく♂さんのブログを読んでいると、「お子さんと何かを作った」みたいなことが結構、書かれていますよね。僕にはそういう記憶がほぼないんです。30代半ばになって初めて一緒に朝ごはんを食べたくらい。だからちょっと現実感がないというか、「親なんだな」と思いつつも、どこか芸能人として見ている不思議な感じがあります。

つんく♂:お父さんが何歳の時のお子さんなんですか?

北野:いくつだろう……たぶん30代前半ですかね。

つんく♂:それでも親を意識する時期が来るとは思うけど、たとえば友人とかに「ビートたけしの息子だろ?」っていじめられたり、逆に得したりしたことは?

北野:ラッキーだったのは、この件に関していじめを受けたことがないことです。もしいじめられていたら、親に対する感情はもう少し違ったのかもしれないと思うことはあります。

得したというと言い過ぎかもしれませんが、知ってる人にとっては「広告会社の人」ではなく「あの人の子ども」というのが手前に来るので、興味を持ってくれるというか。テレビやラジオを聴いていた方も業界には多いので、「君があの篤君か!」みたいな感じで、親戚の人たちみたいに接してくれる人が多いです。

つんく♂:なるほど〜。テレビは見ていたと思うけど、芸能界やアイドルに対してどんなことを感じてましたか?

北野:絶対に近付かないようにしよう、と思っていました。

つんく♂:へ~!

北野:小中学生の頃から周りの人がチヤホヤしてくる感じがあって、そこにいるとちょっとヤバそうだな、と感じていたんです。そもそもテレビ自体をあんまり見ていませんでした。母親の教育方針で「この番組は見てはいけない!」というルールが多かったです。ちょっと下品なバラエティ番組とか、動物系の番組とかがだめでしたね。

つんく♂:とはいえ、幼少期には軍団の人に面倒みてもらったとか?

北野:あの頃、『スーパーJOCKEY』というテレビ番組があって、そのスタジオ見学に連れて行ってもらっていたのが、当時の僕と父親との接点でした。

つんく♂:『スーパーJOCKEY』にはシャ乱Qもちょいちょい出させてもらったけど、あの現場にいた可能性があるのかな~。

北野:でも、シャ乱Qさんが出てらっしゃったのは最後の方ですよね? 僕がスタジオに行っていたのは、92年あたりまでだと思います。

つんく♂:俺らが出てたのは1992〜95年あたりだから、ちょうど入れ違いだったかもね。

北野:1994年には中学2年生になっていて、その時に父が長期間入院をしていて。それから高校2年か3年になるまで、父親には一度も会っていないんです。

現在テレビ東京で放映中のドラマ『真夜中にハロー!』(企画・プロデュース北野篤)の第6話は親子をテーマにした話なんですが、その中で「ずっと話してないから話し方がわからない」というセリフがあります。あれは完全に僕の話なんです。僕も父親と話したことがなさすぎて、話し方がわからなくて、高校生になって久々に会った時は敬語で話していました。

父・北野武への見方が変わった瞬間

つんく♂:なるほど~。少し話を戻すと、単純に一般人として「アイドル」や「J-POP」との出会いや思い出ってありますか?

北野:母親が音楽好きだったせいか、小学生の頃から音楽が大好きでした。5年生の時のクリスマスプレゼントがTHE BLUE HEARTSの1stアルバム『THE BLUE HEARTS』(’87)だったんです。「世の中にこんな音楽があるんだ……すげえかっこいい!」と思って。そのタイミングでMTVやスペースシャワーTVが家で見られるようになったので、日本のチャートもそこまで聴かなくなっていきました。

たぶん、90年代前半って、アイドルがそんなにいなくて、どちらかというと青年誌のグラビアアイドルが強かった時代だったので、アイドルポップスにそんなに触れる機会がなかったのが正直なところですね。

つんく♂:ということは、思春期にハマったとか、ヲタの経験はないんやね。

北野:そうですね。ハマったアイドルがいないし、アイドル音楽をめっちゃ聴いた経験もないです。女性ボーカルをそんなに聴いていなかった気がします。聴くとしたら、『OLIVE』などのモデルさんが曲を出す時に、カジヒデキさんなど渋谷系の人が楽曲提供をしていて。そっちに興味があったかもしれないです。

つんく♂:その後、留学したんでしょ?

北野:留学はもう少し後で、20歳を超えてからですね。

つんく♂:高校を出た後は、何をしてたの?

北野:1年間、予備校に通って大学受験をしました。恥ずかしいんですけど、この頃は自分の中ですごく尖っていた時期というか……大学入学直後、軽音部に入りたくて部室に行ったら、中から自分の好みではないバンドの曲をカバーしている音が聴こえてきて、「ここにいてはいけない気がする」と感じたんです。そうしてそのまま大学に行かなくなってしまいました。たった4日で。だから特に思い出もなく、その後はバイトをしていて。

つんく♂:その辺はやっぱDNAなのかもね〜。

北野:ヤケを起こすところは似ている部分なのかな、と思っていますね。

つんく♂:ヤケというか、プライドがあると思うんだよね。でも、お父さんのこともなんだかんだ言いながらも尊敬の念はあるでしょ?

北野:そうですね。予備校生の時、父親の映画が公開になったので観に行きました。たしか『HANA-BI』か『菊次郎の夏』だったんですけど、めちゃくちゃ面白かったんですよね。「この人は、こんなに面白い映画をつくる人なんだ……」と思って。すごい人だったんだと思いました。

つんく♂:わ~。ちょっと鳥肌たったわ。ええはなし。

北野:事故の直後、家のポストにはものすごい量のハガキや紙が投函されていました。見ると「天罰だ」とか「人の悪口ばかり言ってるからこういうことになるんだ」とか書いてある。当時中学2年生だった僕は、父親が人気のある人だとなんとなくわかっていたけれど、そういう人であっても、その裏にはこういう人たちもたくさんいるんだな、世の中の人たちって怖いんだなと感じました。中2にして人間や世の中の怖い部分を見てしまった気がしたんですね。

それでより一層父親に関することは見ないようにしていたんです。でもそういう中で、映画で賞を取ったと聞いたので見に行ったら、その映画がすごかった。一方で大人になっていくにつれて「自分にはこんな才能はない」というのも理解していきました。

つんく♂:なるほどね。そうやって芸能界との距離を取って、そっちの世界には行かないぞと思っていたんやね。その後、留学は何年くらいしたの?

北野:1年半くらいですね。

つんく♂:英語は、日常会話は困らないくらいの感じ?

北野:それが……僕は今の仕事に就くまで、人間的に本当にウンコでして……。最初は英語学校に行きつつ、いろんなコミュニティに出入りしていたんですけど、3カ月後くらいにすっごいお腹が痛くなって。いろいろ病院を回った結果、急性虫垂炎(盲腸)が進行して腹膜炎を起こしていたんです。すぐに手術することになり、でも英語がわからないから、直前まで何の病気で手術されるかもわからない状態でした。その後、しばらく動けない時期がありました。そんな僕を憐れんでくれたホームステイ先の人がプレステ2を買ってくれて。基本的にはプレステ2ばかりやっていました。

つんく♂:アメリカで(笑)。

北野:アメリカで(笑)。あとは、これも運命的だなと思うんですけど、近所に「元気が出るビデオ屋」というレンタルビデオ屋さんがあったんです。そこでガンダムのシリーズを借りてひたすら見ていました。

つんく♂:アメリカで(笑)。

北野:はい、アメリカで(笑)。

つんく♂:何をしてんねやと(笑)。

北野:ハハハ(笑)。

アイドルに興味がなかったのに「市井紗耶香さんのファンになってしまったんです」


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