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つんく♂×アレンジャー・平田祥一郎、ハロプロで駆け抜けた20年

noteマガジン「つんく♂の超プロデューサー視点!」、今回の対談ゲストはアレンジャーの平田祥一郎さんです。平田さんは、ハロー!プロジェクトなどの楽曲のアレンジを150曲以上もつとめ、つんく♂ワークスの音楽面を支えてきた第一人者。平田さんの音楽的背景やお互いの出会いまでをたっぷり伺いました。
(文 山田宗太朗 / 編集 小沢あや<ピース株式会社>

20年来の付き合いにして初対談。岡山の楽器少年がアレンジャーになるまで

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平田:つんく♂さんとの出会いは2001年なので、もう20年になりますね。

つんく♂:2001年! すごい! でもその間、こうやってじっくり話したことはなかったかも。今、何歳やっけ?

平田:1968年生まれなので、つんく♂さんと同い年だと思います。

つんく♂:あれ!? そうやっけ。同級生チームで言うと、俺と、鈴木俊介(ギタリスト・アレンジャー)も昭和43年組やな。生まれはどこやっけ?

平田:岡山です。

つんく♂:じゃあ、なんとなく見えてた景色は関西寄りなんで、育った環境が近いんやね。やっぱ、なんとなく大阪に憧れつつ、夏休みとかに大阪に来るって感じやったんかな?

平田:そうですね。一番近い大きな街が大阪だったので、大阪文化の影響を受けていたような気はしますね。当時の岡山は物が少なかったので、ちょっと良い服を買いに行きたい時は梅田の阪急ファイブとか行ってました。祖母が池田市に住んでいたこともあって、大阪は身近な場所だったんです。

つんく♂:岡山には何歳くらいまでいたの?

平田:大学の年に上京したから、20歳かな? 僕、2浪しているんです。高校に入る前に1回浪人して、大学に入る前にも1回浪人して。さらに大学でも1回ダブりました。

つんく♂:ということは、東京には俺よりも先に出てきてるんやね。……え? 高校に入る前にもダブったの?

平田:はい。私立の男子校しか受からなかったんですが、どうしても共学に行きたくて……。男子校で自分がエンジョイしている絵面が見えなかったんです。それで1年頑張って、共学の県立校に入るという。

つんく♂:ははは(笑)。わからん人生やなぁ〜。で、大学も1年浪人して、大学でも1年ダブると。

平田:迷惑かけっぱなしの、わりとどうしようもない若者でしたね……。親のスネをかじり倒しました。

つんく♂:なんとなく祥一のことを2個下だとずっと思ってたのはそのせいかも。大学の話になると2年くらいズレてくる感覚があったから。これで謎が解けた(笑)。学生時代、バンドをやってたでしょ?

平田:たくさんやってましたね。始めの頃はドラムを叩いてました。中学時代に吹奏楽部でパーカッションをやっていたから、ドラムも一応ちょっと叩けたんです。でも、だんだんキーボードの方が面白いかなあと思い始めて、いつの間にかキーボードばっかりになってました。

つんく♂:幼少期にピアノを習ったとかは?

平田:少しだけ。幼稚園から小学校低学年まで音楽教室に通って、そのあとは個人レッスンでピアノを始めたんですけど、とにかく練習が大っ嫌いなのと、当時の先生が嫌いで。1年くらいでやめてしまいました。バンドを始めてからとっても後悔しましたね。

つんく♂:わかる。俺もほぼ同じやわ。俺はエレクトーンの方やけど、かなり嫌々通ってたわ。

平田:僕が子どもの頃って、田舎だったのもあるかもしれないですけど、男の子がピアノを弾けるのがちょっと恥ずかしい感じがあって。姉が2人と妹が1人いて、姉ちゃんも妹もピアノをやっていたからなんとなく僕も始めたんですけど、「だめだ、練習嫌だわ」と思って、やめちゃいました。

つんく♂:その気持ち、わかる! で、中学でドラムをやって、高校でキーボードを始めるわけやね。背景としてはDX7 (1983年に発売された、世界初のフルデジタルシンセサイザー)の時代に入ってくると思うけど。

平田:そうですね! 時代的にはそうですけど、とてもDX7は買えず、いちばん安いDX21を使ってました。4オペレーターで、理屈もよくわからずに音を作っていましたね。

つんく♂:あの頃って、バンドやるなら、ざっくりTM系かBOØWY系に別れたと思うけど、やっぱTM系?

平田:いえ、TMは聴くには聴いていたんですけど、バンドでやったことはないんです。僕は自分のバンドを持ったことがないというか、いろんなところから呼ばれては手伝いに行くスタンスだったんですね。

つんく♂:ああ、いたかも~、そういう便利屋さん(笑)。「楽器込みで来て~」って言われる人だ。で、そんな高校生活があって、本格的に音楽にのめり込んだのはいつ?

平田:高校生の時にKORGのM1(1988年に発売されたシンセサイザー)が出て、それを人から借りて打ち込みを始めていました。あれって、内蔵のシーケンサーが付いてたじゃないですか? 

つんく♂:プリセットの音源が、なんとも憧れの音源やったよね。なんかめっちゃうまくなった気がするんだよね。たいせー(現たいせい)も持ってた。

平田:そうなんです(笑)。ピアノの音を聴いてびっくりしました。しかもリバーブとかもその頃から付いてたんで、気持ちよく弾けてる感じがしました。

つんく♂:で、関東に出てくるわけやけど、おそらくバンドブームがあって、「イカ天(三宅裕司のいかすバンド天国)」もやってたと思うけど、ホコ天バンドとかには参加しなかったの?

平田:そっち系ではなかったですね。大学1年の頃は、同じ岡山出身の連中のロックバンドに付きっきりでドラムを叩いてたんですけど、そんなにライブの回数も多くなく、あまりパッとしなくて、面白くなくなったのでやめちゃって。それからはひとりで打ち込みだけをやってました。

つんく♂:で、自分で打ち込んだものは、どうやって発表してたの?

平田:発表とかは全然してなかったです。ちょうどJ-WAVEが開局した頃で、FMを聴いて「なんておしゃれなFM局なんだ!」と思ったのを覚えています。当時の岡山はFMだとNHKしか入らなかったので、ポップスを聴けるチャンスが少なかったんですよ。

その頃のJ-WAVEって、ほぼ洋楽ばっかりでしたよね。MCも半分くらい英語で喋っていて。めちゃめちゃカルチャーショックを受けました。洋楽を聴き始めたのはおそらくそこからなんですよ。それ以前はYMOと角松敏生しか知らなかったですし。

つんく♂:最初にピンと来たのは、どんな洋楽やったの?

平田:その頃はニュージャックスウィングが流行っていたので、最初にピンと来たのはそのあたりですね。メロディが良いなと思ったのは、シャニースの「I Love Your Smile」(’91)とか、ボビー・ブラウンの「Every Little Step」(’89)とか。要は、バンドサウンドではなく打ち込みサウンドですよね。そういうのを真似してドラムトラックだけ作ったりして。まともに曲を組み上げるなんて、その頃はやっていなかったんですね。

つんく♂:なるほどね。でも、それが良かったのかな。変に聴き込んだジャンルがあったら、今のようなバランスの良いアレンジャーにはなれてなかったかもね。こだわりに引っ張られるアレンジャーも多いからね。そういう背景があるからこそ、こっちのリクエストを柔軟に聞き込んで答えを出してくれるんや。ちょっとおもろいな。

平田:そうやってひとりで打ち込みをやっていたら、先に上京していたうちの社長の松原(松原憲さん:SUPA LOVE代表)から連絡が来まして。

つんく♂:バラケン(松原憲さんのあだ名)も岡山やっけ? 

平田:そうです。高校時代に同じ楽器屋さんで溜まっていた仲間で。一緒にバンドやってたんですよ。

つんく♂:えっ、そうなんや!

平田:松原は僕の2つ年上で、ハナっからプロを目指して先に上京したんですけど、「一緒に曲作ってみない?」って誘われて。それでまた付き合いが始まったんです。

つんく♂:そうなんや。たしかに、バラケンは楽器屋さんにいそうな兄ちゃんやわ。でも、岡山からそんな才能が2つも出てきたのはすごいね! そんな同郷者2人と出会えたの、俺もラッキーやな。バラケンは奇想天外やったけど、あの謎さがなかったら俺もあそこまで幅広く音楽作れなかったかもなぁ。

平田:松原にはすごく尻を叩かれました。当時僕はゲーム会社で音楽をつける仕事をやっていたんですけど、「早よやめてうちの会社に来い!」ってずっと言われてたんですね。

つんく♂:それ、バラケンがラクしたいからやん(笑)。

平田:まさに、のちにそういう状況になるんですけど(笑)。「声優さんのアルバムを1枚まるまるやることになったから、打ち込み全部やって」と言われて。日中は会社に行き、夜中に家で打ち込みをやっていました。

つんく♂が「この人のアレンジは裏切らない」と思った理由

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つんく♂:2001年、出会った最初のきっかけは何やったっけ?

平田:僕もあやふやなんですけど……たしか、シェキドルのカップリングで「がんばっちゃうもんねぇーッ!」(’01)という曲があったんですよね。あれがおそらく初仕事だったのかなあ。で、たぶんその後は「よくある親子のセレナーデ」(’02)ですね。

つんく♂:シャッフルユニットのカップリングの共通曲ね。その頃はまだ平田祥一郎じゃなくてSHO-1名義だったよね。

平田:そうです。そこからメロン記念日の「夏」(’03)ですかね。

つんく♂:なるほど。まだその頃は探られてるね(笑)。たぶん俺の中で「何者やろ?」感はあったと思う。いろんな人のアレンジが上がってきたのを聴き比べて「まあ、この感じなら彼(平田アレンジ)ので進めていきましょ」とか言ってた頃やね。

平田:そうかもしれないですね。その頃は事務所内でアレンジコンペがあったので、ひとつの曲にも複数の作家がアレンジを出していた時期だと思うんです。僕もコンペには出していたんですけど、打率が全然良くなくて。モーニング娘。「Mr. Moonlight ~愛のビッグバンド~」(2001年リリース。アレンジは鈴木俊介が担当)とかもコンペ出してたんですよ。だけど、仕上がりを聴いて「これは無理だわ……」と敷居の高さを思い知った記憶があります。

つんく♂:鈴木俊介にしても俺にしても祥一にしても、同い年ということは、当時32〜33歳かな? 今思えば、みんな超若手やね。でも、あの時から鈴木俊介はかなりのプロ技を見せてくれてた。イメージを伝えると、2秒後には弾いてるんよね。彼(笑)。で、祥一が芯食ったのはいつやったんやろ?

平田:初めてシングルのA面を担当したのがカントリー娘。の「先輩~LOVE AGAIN~」(’03)ですけど、僕の中で芯食ったと感じたのは、ZYXの「白いTOKYO」(’03)。当時青山にあったオフィスでつんく♂さんと直接打ち合わせしましたよね。ウィンターソングというのは決まっていて、「キラキラしたい」とおっしゃっていて。当時のZYXのフレッシュ感などを鑑みて、試行錯誤しました。

つんく♂:W(ダブルユー)はもっと後やっけ?

平田:Wは2005年なので、だいぶ後ですね。その前にBerryz工房「ピリリと行こう!」(’04)があったりして。

つんく♂:なるほど。そう思ったらやっぱり、最初はZYXやったのかもな。「先輩~LOVE AGAIN~」も良かったけど、でもやっぱりZYXかな~。

平田:ZYXは、ファーストシングル「行くZYX! FLY HIGH」(’03)のアレンジが河野伸さんでしたよね。河野さんと自分では格が違いすぎて、どうやったら成立するのかすごく悩みました。何度直したか、自分でも憶えていないくらいリテイクもあって。それだけ時間をかけさせていただいたので、最終的には自分の中でもすごく納得できるものに仕上がったんですけど。

つんく♂:「白いTOKYO」の時は、80年代のアイドルをリアルタイムで聴いていて、その成り立ちをわかってる人に頼みたくてね。さらに、その後も祥一は、時東ぁみのアイドルカバーをたくさんやってくれて。山瀬まみちゃんの「メロンのためいき」のカバー(’05)とか、あそこらへんのニュアンス残しつつ、でもちゃんと新しい音色とリズム。そういうのを出してくれたのが、信用感につながったと思う。「この人は裏切らないな」と思った。

平田:そうだったんですね。その後たくさんお仕事をいただけるようになったので、「どのへんから任せられると思っていただけたのかなあ?」と考えていました。

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