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つんく♂がプロになった日〜モーニング娘。&ハロー!プロジェクト25周年に寄せて〜

マガジン「つんく♂の超プロデューサー視点!」のご愛読、ありがとうございます。今回はつんく♂が自身のキャリアとモーニング娘。結成時を振り返り、「プロプロデューサー」としての一歩を踏み出した頃のことを綴ります。
<文 つんく♂ / 編集 小沢あや(ピース) / イラスト みずしな孝之

僕のキャリアは、1988年の大学生の時に「シャ乱Q」を結成し、大阪でアマチュア活動を開始するところから始まりました。

正直、バンドとしてのテクニックが100点だったかというと、そうではありません。メンバーみんなが自覚してたので、いろんなアイデアを振り絞ってファン獲得に焦点を絞り、奮闘しました。

僕たちが天才ではなく凡人バンドだったのは、言うまでもないでしょう。しかし、バンドの知名度が上がるなら、どんなことにでもチャレンジする貪欲さはあったと思います。

その結果、91年にNHK-BSが主催するバンドコンテストで全国大会出場まで勝ち進みました。規模は小さいけれど、高校野球の甲子園大会のように、BSながらもNHKで日本全国で放映される大会です。

シャ乱Qは、その全国大会で日本一である「グランプリ」を獲得しました。それまで凡人人生を走ってきた僕にとっては、最初に掴んだ「日本一」の称号です。

何をやっても中の上。なんとなく、なんでもそこそここなす感じ。勉強もスポーツも遊びもグレる感じもモテ感も平々凡々のまあまあって感じでした。

本当に「悪くない、まあ、いい感じ」って言葉がピッタリ。ということは本当に「悪くない」ので、なんとなく人生充実してるというか……それでそのままいくなら、それはそれ。自分自身が「悪くない」と思ってるような人生だったので、スイッチを入れて頑張った大学生バンド生活の集大成として得られた称号「日本一」が、本当に嬉しかったです。

そして、それをきっかけに92年にメジャーデビュー!  が、しかし、しばらくは売れなかった……。そりゃそうです。やっぱり、単なる凡人バンドなので、売る方も何をどう売っていいかわからなかったんでしょうね。

で、時代はというと、日本は経済バブルが弾けたというのに、CD市場は好調。そんな少々歪んだ時代背景の中、そこからもずいぶんいろんなことにチャレンジしました。その辺の細かいことは今度発売される著書「凡人が天才に勝つ方法」の中にもちょこちょこと書いてあるので、興味ある方は読んでください。

そのチャレンジの中で一つ言えることがあります。僕はヒット作品を作ることに関して、コツというか秘訣というか、とにかくある種の必勝パターンというのを構築することが出来ました。

それによって、シャ乱Qとして「シングルベッド」が大ヒット。「ズルい女」でNHK紅白歌合戦にも出場することが出来ました。それ以降、連続でミリオンヒット曲も出すことができ、手応えも充実感も、究極の忙しさも感じていました。

そんな忙しい日々もある程度続き、「ああ、よかったな〜」と思う反面「あれ? でも、この先どうしようかなぁ」って思っているのも事実でした。

シャ乱Qで一躍人気者になれた僕ですが、結局は凡人だったため、正直僕自身がその先、どんな曲を作っていけばいいか、大きな壁にぶち当たったのです。まだまだ楽曲セールス的にもシングル盤が50万枚は売れる時期のことでした。今思えば爆発的な数字ですよね。

ただ、そこに辿り着くまでの「シングルベッド」以降、ミリオンセールの続いたシャ乱Q。音楽番組はもちろんバラエティ番組や映画にも出演させてもらえるほど、いわゆるお茶の間でも知名度があったので、相当な人生のスピードを感じておりました。

しかし、記憶にないほどのスピード感だったのが、98年に入ってすぐくらいから、自分でも「受ける風の量が変わってきたな」と感じ始めていました。急激に減速しだしたんです。

そんな矢先に舞い込できたのが「ASAYANでボーカリストをオーディションするから、審査しない?」ってやつです。

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