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ハローキティはいかにして長年愛されてきたか サンリオデザイナー山口裕子さん×つんく♂対談
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ハローキティはいかにして長年愛されてきたか サンリオデザイナー山口裕子さん×つんく♂対談

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noteマガジン「つんく♂の超プロデューサー視点!」ご購読ありがとうございます。今回の対談ゲストは株式会社サンリオのハローキティ担当デザイナー、山口裕子さんです。1980年から「ハローキティ」のデザイナーとして、世界でも有名なキャラクターに育て上げた立役者。今回、山口さん直々につんく♂へオファーがあり、ハローキティとハロー!プロジェクトのコラボ楽曲「Hello! 生まれた意味がきっとある」を制作することに。そんなご縁もあって、つんく♂が山口さんのこれまでのキャリアを紐解きます。(対談後編は6月12日(日)更新予定です)
<文 羽佐田瑶子 / 編集 小沢あや(ピース株式会社)

ハローキティもモーニング娘も。「変化の決断」は緊張する。

つんく♂:今回はありがとうございました。まさか、キティちゃんに楽曲提供できる日が来るなんて。

山口裕子(以下、山口):こちらこそ、つんく♂さんに楽曲を作ってもらえて、大変嬉しかったです。

つんく♂:僕もすごく楽しかったです。ひさしぶりに頭の中をキラキラさせながら、曲作りができました。

山口:私は、松浦亜弥さんのキャラクターの「アヤンキー」を作らせてもらったじゃないですか。その関係でハロー!プロジェクトさんのコンサートにはよく伺っていました。覚えているのが、舞台裏で辻ちゃんと加護ちゃんが私のところにタタッと走って来て「キティちゃん、好きです〜」って言ってくれたことです。当時、加入したばかりで幼いふたりだったので、ものすごく素直な気持ちで言ってくれたのが伝わってきて、嬉しかったですね。そのご縁で、辻ちゃんとは今でもずっと交流があるんです。LINEもしているくらい。

つんく♂:そんな交流があったんですね。

山口:なので、「キティに曲を書いてもらうならつんく♂さんがいい」と思っていました。お願いをしてから、思っていたよりも早く楽曲が出来上がったので、びっくりしました。

つんく♂:いいペースで作れたかもしれないですね。イメージがあったんですよ、サンリオピューロランド1Fの大きな広場で親子が歌って踊ってくれている姿を想像しながら。

山口:キティやサンリオのことを、よくわかってくださっているんだなと思いました。一回聴いただけで「何の問題もない! オッケー!」って。私は何かあれば言うタイプですけどね、文句のつけようがなかったです(笑)。

つんく♂:僕はサンリオピューロランドがすごく好きで、子どもと何度も行かせてもらってたんですよ。規模と距離感とキラキラ感が、ちょうどいいんですよね。雨天に左右されないし、いろんなものがギュッと詰まっていて、子どもにも目が届きやすくて、親も疲れないってイメージがあります。

山口:サンリオピューロランドは31年前にできました。それまでキティはデパートで見かけるだけのキャラクターだったんですけど、サンリオピューロランドなら動いて一緒に遊ぶことができる。オープニングに行って、初めてダンスをするキティを見たときはものすごく感動しました。

つんく♂:当時は、誰がキティにダンスをさせようと思ったんですか?

山口:関わっていたスタッフたちで決めていました。やっぱり最初は「歩くことしかしなかったキティが踊れるのか」と不安はありました。だんだんと踊りも上手くなって、ミュージカル風のショーをするようになって、歌うようになって。洋服も、もともとキティはオーバーオールしか持っていなかったんですよ。それだと踊るにはちょっと地味だから、華やかなワンピースを着せたかったんです。

つんく♂:キティちゃんは、オーバーオール以外を着たことがなかったんですか?

山口:ほとんどそうです。私になってから、オーバーオール以外も着るようになりました。それって、すごく勇気がいることだったんですよね。「これまでの歴史を私が変えてしまっていいものか」と。

つんく♂:変えるっていうのは、すごく勇気がいることだと思います。全然違う話かもしれないですけど、モーニング娘。は結成当初5人で活動していたんですね。そのまま固定で活動していくことも考えられたけど、新メンバーを入れて入れ替え制にしました。即決に見えてましたけど、実は新メンバーを入れるっていう決断は、自分の中で結構勇気がいることでしたね。今は当たり前になりましたけど、「変化すること」を決断する第一歩は、やっぱり緊張します。

山口:そうですよね。

つんく♂:今でこそキティちゃんが何を着ていても不思議じゃないし、色まで変わるじゃないですか。

山口:キティの肌色を変えたのは、自然な発想でした。ハワイに行ったのに日焼けしていないのはおかしいから、日焼けさせようと思ったんです。

つんく♂:なるほど。モノクロのキティちゃんも衝撃的でした。

山口:モノトーンのハローキティのデザインが生まれたのは、1987年ですね。モノトーンにしたのは、ハイブランドの影響がありました。キティは小学生には人気があったけれど、中高生になると卒業してしまう。中高生向けの商品を考えていた時に、コムデギャルソンなど当時流行していたブランドが、モノクロのトレンドを作り出していたことにヒントをもらって、キティにも取り入れようと思ったんです。そうすれば、中高生に受け入れてもらえるんじゃないかって。

ⓒ’22 SANRIO 著作(株)サンリオ

つんく♂:最初は、いろんな意見がありましたか?

山口:いきなり受け入れてもらえるかわからないので、テストをして、様子を見ながら少しずつ商品を広げていきました。その当時の高校生は、制服で遊びに行かなかったんです。学校帰りにロッカーに制服を入れて、私服に着替えて遊びに行く。なので、その子たちのためにバッグや靴といったファッションアイテムをモノトーンキティで作りました。それが受け入れられたら、次はステーショナリーを作ろうと考えていて。

つんく♂:手応えはありましたか?

山口:ありましたね。身に付けられるものを愛用してもらえたら、文具や雑貨も持ってくれるだろうと思っていたので。

つんく♂:うちの娘は10年近く、キティのキャリーバッグを使ってます。本人が成長しても、デザイン的にも使えて、機能的にも丈夫なんですよね。決しておもちゃじゃない。その辺がすごいなと思います。

山口さんがデザイナーの道を目指したきっかけ「レタリングの素早さ」

つんく♂:山口さん、ご出身が高知県ですよね。山口さんは高知のどこですか?

山口:私は市内でした。自分の部屋から、お城が見えるような距離のところに住んでいて。当時は飛行機は高くて乗れないし、東京や大阪は船で行かなきゃいけなかったので、高知の外に出ることはほぼなかったですね。

つんく♂:そもそも、どうしてデザイナーになろうと思われたんですか?

山口:「デザイナーになろう」と、小さな頃から決めていたわけではないんです。偶然が重なったというか、自己暗示が凄かったというか。私は小さな頃から、ピアノを習っていました。家は父が教師、母が日本銀行で働いていたお堅い家系で、音楽関係の血筋でもないのに、母の強い思いがあって。というのも、母が言うには教師は“貧乏”だと。なので、ピアノを習って、音楽大学に入学して、お医者さんと結婚する、というのが母が描いていた理想のコースで、小学生の頃からその理想を叩き込まれていました。そうしたら、お金に困らないからと。

つんく♂:すごい話ですね。

山口:だけど、ピアノは自分に向いていなくて。弾くことはできるけれど、楽しくないんです。家庭教師がついてレッスンをしてくれたんですけど、その日が来るのが憂鬱で仕方がなかった。そんなことをこの先、ずーっとやるなんて嫌でしょうがなかったですし、楽しくないってことは向いてないんですよ。

中学2年生の時ですかね。美術の先生が「将来何になりたいんだ?」と聞いてくるんです。当時の私はなりたいものなんてないし、「親からは音大に行けと言われているのでそうするつもり」と答えました。そうしたら「自分からなりたいと思ったわけじゃないんだろ?」と返されて、私もうつむきながら「はい…」って。すると、「デザインって言葉を聞いたことはあるか?」と話し出してくれたんです。

当時、まだ「デザイン」という言葉は一般的ではなかったけど、これからポスターや広告をデザインする「グラフィックデザイナー」が台頭するだろう、と。そして「お前はデザインに向いていると思うから、デザイン系の大学に行けるように勉強しなさい」と言われたんです。

つんく♂:へえ〜、先生はどういうところを見抜いてたんですかね?

山口:私も気になって「どこが向いているんですか」と聞いたんです。そうしたら、レタリングの授業で明朝体とゴシック体を書き分ける課題を出したら、私は短時間で書き分けられたからだと。そういう人はあまりいない、と言われました。たしかに課題をパパッと終わらせたのは事実なんですけど、理由はもっとくだらなくて、「課題を出せば授業から抜けていい」と言われたからなんです。授業から早く抜けて、校庭でドッジボールをしていたいタイプだったから。

つんく♂:(笑)

山口:だけど、暗示ってすごいですよね。先生に「向いている」と言われたときはポカーンと話を聞いていただけだったけど、やっぱり頭の片隅に残っていて、心のどこかで「自分は向いているんだ」と思っていて。高校に進学した時に、美大に行くにはどうしたらいいのか先生に相談したら「県展(高知県美術展覧会)に出展しなさい」と。高校生で入賞した人はいないから、賞を取れば何を学べばいいかわかるだろう、とアドバイスをもらって1年生から出展していました。そうしたら、入選できたんですよ。

つんく♂:それはすごいですね!周りも驚きましたよね。

山口:NHKのニュースや新聞にも載り、すごい反響でした。インタビューを受けながら「私は美大に行くんだ」と、自然と自己暗示をかけていたんだと思います。いっぱい絵を描きましたし、勉強もして、東京の美大を目指しました。だけど、親は大反対。美大は不良が行く場所だと言われて、相当格闘しましたね。私は、東京に未来があると思っていたので。

「絵だけを描いていればいいデザイナーにはなりたくなかった」

つんく♂:そこから、美大に進学されたわけですけど、美大はどうでしたか。どんな未来があったんですか?

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総合エンターテインメントプロデューサー / TNX株式会社代表取締役社長。1992年、ロックバンド・シャ乱Qのボーカリストとしてデビュー。音楽家として作詞・作曲と、「モーニング娘。」をはじめとした数多くのアーティストプロデュースを手がける。